2007-03-23-Fri 
『カポーティ』を見た。
見る前からたぶんこれはあれだろうと思ってたら、まさにその通り、好きな映画だった。
でも、なにがおもしろい、と訊かれても具体的に、なにとか、どことかははっきり言えない。
またしても僭越な物言いだと思うけど「あ、なんだ、こういう人は私だけじゃないんだ」という安心感と、人からみたら私はこんなふうに見えるのか? という絶望感がないまぜになっている、おもしろさ。
だから、おもしろいというのとはまたちょっとちがうかもしれないなあ。
非常に興味深いというかね、ここで描かれているカポーティという人の人に対する視線がね。
あんたこそが『冷血』だ。っていう感じで作ろうねって、言って作ってるんだろうなあ。
彼の他人との距離のとりかたとかがね。
こういう人って映画にするに値するような、奇人なんだって思った。
そんなことない、普通だよ、この映画で描かれている作家の日常なんて、と思っているのは私と私の周りの人々だけなんだろうなあ、なんて思った。
自分が見せ物に値するって思い知るのは怖いねえ。
って、そこまで含めておもしろがっているんだけど。
にしても『冷血』を書いている最中から「これは傑作になる」とか「今までにない文学になる」って自分で言っているあたりがなんとも。
どうして『それ』がわかったんだろう。
そして、どうして、その通りになったんだろう?
本当に興味はつきない。
1984年にアルコール中毒で死んでいる。
『冷血』以降、作品を一つも完成させていない。
恐ろしいねえ。
劇中で出てくる台詞だし、たぶん、『冷血』の前書きか後書きとかで読んだ記憶があるんだけど「犯人と自分は同じ家で生まれて育って、彼は裏口から出て行って、私は表から出て行っただけだ」って言うんだけどね。
それはそうなんだよなあ、って。
思うね。
人が言ったことを94パーセント覚えていたっていうのもすごいなあ。
でも、これもわかるなあ。そうなんだよね、覚えているもんなんだよね、興味があれば、だけどね。
いや、そういうのも含めて、いろいろわかって、わかりすぎるもんだから、見ていて、だんだん、自分の視線が下がってきて、画面を見るよりも、画面の下を見ている時間の方が長くなったりしていた。
でも、どうして『冷血』以前には、『冷血』のような物がなかったんだろう?
そっちもまた不思議だ。
気がついたら『テロルの決算』とか図書館に並んでいた年なもんで、そのあたりのことがよくわかりません。
そして、こういうのの役作りって、どうやってるんだろう? 『冷血』が出版される前に抜粋朗読会ってのが行われたらしいんだけど、そのフィルムとかテープとかってのが残っているんだろうか?
でも、それだけでもなあ。朗読と日常の喋りは違うだろうし、かなり酔っぱらっている場面が多いしなあ。
どうやって、あの特殊な声としゃべり方に、一本の映画の中で普遍性を持たせることができたんだろう?
「それでいこう」っていうのは簡単だけど「そうじゃない」「もうちょっと」こんな感じの「こんな感じ」って誰が感じる、こんな感じなんだろう? どこでオッケーを出したんだろう?
わからん。
誰の心の中にもいるカポーティってのもないだろうに。
いないしな、心にカポーティは。
シルクドソレイユのドキュメンタリーを見ている。
今、5本目。
新作を作っているのを追っかけているんだけど、見ていてきりきりと胃が痛くなる。
画面の表面では、アクト(演目ね)とアクター(演者ね)を追いかけているんだけど、その向こうに見え隠れしているディレクションを含めたスタッフサイドの緊張が、伝わってくる。
なんだろう、あれの緊張といらだちってのは、人種も国境も越えるものなのか?
お金がいくらあってもダメなものはダメなんだなあ。
作っているのか『ヴァカライ』だと判明。
っていうか、今、演目のタイトルが決まったところ。大丈夫か? そんなんで。
タイトルが決まるのが三ヶ月前って遅くねえか?
って、私に言われたかないだろうけど。
演目もまだ確定していない。
タイトルはさあ、早めに決めようよ。
決めようっていう意志があれば、できることなんだからさあ。
お気に入りの夏川純さんのこと。
夏川純、本当は26歳だったとブログで告白!
というのを読む前に本人のブログを読んでしまって、最後に夏川純と署名までしてあって、なんのことかと思っていたら、ヤフーのトップの芸能欄にトピックとして書かれていた。
よく、芸能人がホームページで発表、なんてのを目にするけど、まさか、そういう記事やらニュースよりも先に自分がブログで読むことがこの世にあろうとは!
びっくり!
夏川純さんの他にマメに見ているのは柚木ティナさんのブログですねえ。
柚木ティナさんはちょっとみっけもんだと思うよ。
あの人はすごいよ。本当に。
がんばれティナっち!